2022/02/21追記:
●水戸黄門の「黄門」は日本ではなく中国の官職名…なぜ中国名で? 【NEW】
『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)は江戸時代中期、各藩の藩主や政治状況、評判を解説した本です。
【クイズ】この『土芥寇讎記』は謎の資料と呼ばれますが、次のうち間違っているものはどれでしょう?
(1)黒塗りされている部分が多数ある。
(2)東京大学史料編纂所が蔵しているものしか確認されていない。
(3)編著者名や製作された目的も未だ不明。
●祖父の家康と正反対!水戸黄門こと徳川光圀は非現実的な性格?
2016/5/5:
水戸黄門こと徳川光圀の評判 売春大好きで遊郭通いが止まらなかった?に続いて、『土芥寇讎記』というか、
殿様の通信簿 (新潮文庫)
(磯田 道史)の話を。今回は本当は徳川光圀じゃない話にしようと思ったものの、個人的にめちゃくちゃ興味を示した話があったので、引き続き光圀さんで行きます。私が強く関心を示したのは以下のレビューでした。これは前回の女好きとも関係するところですね。
5つ星のうち5.0 江戸時代前期における大名の素顔―「お殿様」の行状素行や思考態度を語る
投稿者仮面ライター 2015年3月19日
<まず、光圀の「圀」の字である。浅見にして知らなかったのであるけれども、この字は所謂「則天文字」だそうである。こうした面で「光圀には、観念が行動のすべてを支配しているようなところ」(p.12)があり、万事が現実主義者であった祖父の家康と対照的であった(さらに、『大日本史』編纂を手掛け、結果として幕府の命脈を縮めてしまった)。そして、『土芥寇讎記』では「ひそかに悪所に通い、酒宴遊興甚だし」といった文言もあったようだが、このあたりの解釈が本書の真骨頂と言えるだろう>
磯田 道史さんは、<光圀が今流の「風俗通い」に精を出していた訳ではなく、諸大名の中でも「ズバ抜けて好奇心の強」かった(p.21)「黄門様」は、遊里などで当時の文化人・芸能人などと「お忍び」で面談などをしていたのではないか>といった解釈をしていたそうです。
レビュアーの方は、<確かに、上述の『土芥寇讎記』でも、「文武両道をよく学び」、「才知発明」で「博学多才」云々と(p.19)、「黄門様」の学識を評価している>としてこの説明に納得。ただ、私が後に実際に「殿様の通信簿」を読んだ印象では、磯田道史さによる想像による部分が大きいように感じました。
●武士から「公家」に変化…公家化の象徴的存在であった水戸黄門
とりあえず、レビュアーの方はここから、<こうした「黄門様」などの江戸時代前期の大名を熟々みていくと、彼らは朝廷の位階秩序に形式上組み込まれ、「戦国」の気風を徐々に喪失し、次第に「公家」化していったことがよく分かる>と続けた上で、以下のような変化が起きたと書いています。
<それはまた、「京都の宮廷文化」への憧憬ともなってゆき(※)、「この憧れは、二百年以上つづいて、明治維新のときに、大名たちが権力の中心に、天皇をもちだしてくる伏線になっていった」(p.87)という磯田さんの推論について、私は非常に説得力を感じる>
むしろ評価されているわけですが、公家化の象徴ってのはおもしろいですね。戦国時代だと今川義元の公家化はバカにされることが多いものの、そうではない感じです。時代の変化ゆえでしょうか。商家ではないですし、嫡流ではないですし、江戸幕府はまだまだ続いていますしでいろいろと違うのですが、徳川家康の孫ということもあり、「売り家と唐様で書く三代目」ということわざを思い出しました。
<初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている。遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの>
(
売り家と唐様で書く三代目の意味 - goo国語辞書より)
●光圀が用いた「則天文字」とは何か?DQNネーム的な則天文字の使用
最初のレビュー部分であった「万事が現実主義者であった祖父の家康と対照的」。これは、光圀が非現実的な考え方の人だったということになります。ただ、私が一番関心を持ったのはこの少し前の「圀」の字が「則天文字」だったという話。私はこの「則天文字」というものすら知らなかったので、検索してみました。
則天文字 - Wikipediaによると、則天文字(そくてんもじ)は、中国・武周の女帝武則天が制定した漢字。武則天が権力を誇示するため、あるいは個人的な好みや考えのため制定されたとされているそうです。
<武則天が失脚するとほどなく忘れ去られた。日本で最も有名なのは「圀」の字で、徳川光圀の名前に使用されている。この字は「國」の「或」の部分が「惑」に通じるので不吉だと理由で「囗」(くにがまえ)に「八方」という字が入れられた。(中略)
部分的にではあるが日本や韓国にも伝わった。例えば江戸時代の大名「德川光國」は正しくは「德川光圀」と書かれる。これは「或」の字が「惑」に通じて不吉だったからとされている>
もし「光圀」と改名したのが「不吉だったから」でしたら、まさに非現実的という話になってわかりすいです(ちなみに改名は52歳説が有力だそう)。ただ、全然意味がないのに変に格好つけて変えてしまうということから、公家的な性格や好奇心での解釈でも可能でしょう。
イメージの悪い例えになっちゃいますが、DQNネーム的な感覚とも似ているかもしれません。前回も
徳川光圀 - Wikipediaから以下の部分を引用したように、光圀は元不良少年で、そういった素地があったように見えます。
<幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている[5]。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった>
つい「DQNネーム」って書いちゃったので、これまずいかな?水戸光圀ファンに叩かれるかな?と検索したら、他でも書いている方いました。
DQNネーム (どきゅんねーむ)とは【ピクシブ百科事典】で、以下のように書いている部分がありますね。
<わざわざ一般的な字から見慣れない異体字に改名した水戸光圀公も、DQNネームと言えばDQNネームと言えるだろう。ちなみに子孫に「圀順」、「圀斉」がいる>
●編著者名や製作された目的も未だ不明!謎だらけの資料『土芥寇讎記』
では、最後にクイズの回答。黒塗りだけは嘘でした。
【クイズ】この『土芥寇讎記』は謎の資料と呼ばれますが、次のうち間違っているものはどれでしょう?
(1)黒塗りされている部分が多数ある。
(2)東京大学史料編纂所が蔵しているものしか確認されていない。
(3)編著者名や製作された目的も未だ不明。
【答え】(1)黒塗りされている部分が多数ある。
土芥寇讎記 - Wikipedia
当時の政治状況や各藩に対する認識を示した珍しい史料として注目される一方、編著者名や製作された目的も未だ不明で、「謎の史料」とも言われる。(中略)
編著者の謎
全国諸藩を同時期に調査し、その町中の噂すら採取されている内容から見て、「幕府の当局者か、将軍家に近侍した誰かがこれらの調査を行いまとめた」という推測がされてきた。よく言われるのは「隠密を使って各藩の内容を潜行調査した」という説である[3]。
[3]^ 各藩の「居城」の記事の書き方が甲賀者末裔を称する家に伝わった『筑前筑後肥前肥後探索書』(寛永3年2月~3月)『讃岐伊予土佐阿波探索書』(寛永3年8月10月)と酷似していることが指摘されている(『江戸史料叢書』「土芥寇讎記」解説より)
また、既述のように『土芥寇讎記』は現在1集しか伝わっていないが、
・総目次と実際の項目に差異があること
・ある冊は一人で浄書したのに対し、ある書は3人ぐらいで浄書した形跡があるなど統一がとれていない
ことから、何らかの事情により未完成のまま原本のみが伝わった可能性も指摘されている。
儒教色強い記述内容から徳川綱吉の意向が反映された可能性は高いが、幕府がどれだけ関わったのか、それとも幕府とは関係なく編纂された物なのか、ともかく、前書きも奥付も全くない史料のため、その編著者も目的も、一切が謎の史料なのである。
『土芥寇讎記』はおもしろいですね。もう1回やる予定でいます。
●水戸黄門の「黄門」は日本ではなく中国の官職名…なぜ中国名で?
2022/02/21追記:どこかで書いたような気もするんですが、そもそも「水戸黄門」の「黄門」って何?という話を。
Wikipediaによると、この「黄門」は本来は「黄門侍郎(こうもんじろう)」というものであり、中国の官職名の一つです。日本ではなく中国の官職名なんですよ。
<秦において、皇帝の勅命を伝達する官職として創始され、漢以降の歴代王朝にも受け継がれた。秦や漢では、禁中の門(禁門)が黄色に塗られていて「黄門」と呼ばれていたため、皇帝に近侍するこの官職(郎官)は「黄門侍郎」と称されるようになった。後漢では「給事黄門侍郎」と改称した官職が置かれ、魏・晋に受け継がれた>
では、なぜ日本の徳川光圀が中国の官職名で呼ばれているのでしょうか。Wikipediaでは、単に<日本の官職を唐名で呼ぶようになったとき、中納言は中国のこの官職に相当すると見なされて「黄門侍郎」、後には略して「黄門」と呼ばれるようになった>と説明しています。
ただ、これではそもそもなぜ日本の官職を唐名で呼ぶようになったのかが不明でしょう。これについて、磯田 道史さんは、
殿様の通信簿 (新潮文庫)
で、外国への憧れが強い日本では、官名を中国風に呼ぶ習わしがあり、わざわざ中国風に呼んでいたと説明していました。当時の人は中国かぶれだったようです。
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