一方でそれらの批判を読み、「一発屋のミュージシャンがピーク時の収入や放蕩を自慢して何が悪いの?」と思ってしまった人も少なくないはずだ。(中略)
高橋のようなキャラクターを批判し嫌悪する「一発もない屋」たちのメンタリティを考えてみると、それが単なる「嫉妬」であることに気づかされる。「たった一発」にもかかわらず、自分の人生を10回繰り返しても高橋に遠く及ばない生涯年収だ。それを思えば嫉妬もしてしまう。一発を当てることがいかに難しいことであるかも理解せず、しかも自分がそんな「たった一発」さえないことを棚に置いて、だが。
批判が嫉妬心の裏返しなのだとすれば、それはそれで、過去の栄光にすがる高橋以上に、「一発もない屋」たちが、なんとも哀れに見えてくる。
創価学会に入ると、お金がかかりますか?(1/2) - その他(社会問題) | 【OKWAVE】 2012-07-26 20:43:50
takeshi95
創価学会に入会している知人の家を訪ねました。
そこで気になったのが、彼女の家のあまりの質素さです。(中略)
思ったのですが、「彼女は給料のほとんどを学会に寄付して
自分はこんなに質素な、もっと言えば貧しい生活をしているの
では?」と、疑問を持ちました。(中略)
怖くて本人には聞けません。
創価学会に入ると、お金がかかるんでしょうか?
教えてくださいませ。
heisenberg
元学会員です。
>>◇創価学会に入ると、お金がかかるんでしょうか?
結論から言いますと、「人、それぞれ」ですね。
大金を費消する学会員もいれば、僅かのお金を出すだけの学会員もいます。
僕個人の体験を紹介したい、と思います。
以前、戸建ての借家に住んでいましたが、大家さんが熱心な学会員でした。(中略)
その雑談の中で、「これは、息子や嫁には内緒だよ」と話してくれたのが、自身が如何に創価学会に寄付しているか、という自慢話でした。
◇毎年、夏と冬に、100万円ずつ、寄付している。計200万円。
◇息子夫婦には内緒で、息子夫婦の分も、代わりに寄付している。
計40万円(10万円×2人分×2回)
◇3人分で、毎年、計240万円を寄付している。(中略)
以上、僕の体験談を紹介しましたが、「自分から喜んで多額の寄付をする」という学会員は、珍しいように思います。
支部長クラスになりますと、「どれだけ、3桁の寄付を集められるか」が、その支部や支部長、婦人部長など、支部幹部たちの器量を示すバロメーターになりますので、相当、無理をしています。
創価学会の再生(9) - Yahoo!知恵袋 ライター:mifune_0097さん(最終更新日時:2015/1/19)投稿日:2015/1/19
創価学会では池田の「功徳・罰」論に影響されて物欲の充足が信心の結果と見なされるだけに、見栄や欲得に支配され、打算で行動し、自己利益や栄達のみ腐心し、他人を顧みない「頓・陣・痴」の三毒強盛な世界が現出している。
昭和五十八年四月二十二日号の「週刊朝日」のグラビアには、東京都住宅局が管理する、都営住宅から夜逃げした人々が置き去りにしていった仏壇七個のうち四個までが、鶴丸付きの学会員のものであることが報じられている。
同様に、同年九月二日号の「アサヒグラフ」の特集「サラ金地獄“蒸発”の現場」写真の大半にも鶴丸つき経本や仏具が写っている。
いかに多くの学会員がサラ金苦に陥り、「夜逃げ」や「家庭崩壊」を招いているかを示す一つの証拠であろう。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p162-7)
昭和五十二年1月1日、池田大作は学会本部・師弟会館の“模刻本尊”の前で催された新年勤行会の席上、次のように語った。
「功徳が皆さんの上に、創価学会員の上に、燦々とこれまた雨の降るが如く功徳が湧かないわけがないんです。皆さん、功徳を頂いておりま すね。まだまだ今までの何千倍何万倍何億倍も受ける資格があるんです。うけられる土壌があるんです。これは創価学会の信心には世界一、宇宙第一の功徳があ る、とこう私は断言しておきます。いいですか。あるんですよ。この創価学会を馬鹿にしたり、金儲けの手段にしたり、また権威で抑えようとしたり、または中 傷批判した場合には仏罰があります。全部、地獄へ行きます」(内部文書 聖教1/4に要旨)
ここには創価学会の御利益信仰の根幹ともいうべき「功徳・罰」論が端的に示されている。すなわち学会に入信すれば利益があり、反対すれば不利益を被るというのである。池田はこれを「仏法の方程式」とも意義づけている。
(中略)だが、このような「功徳・罰」論は「仏法の方程式」ではないし、日蓮正宗の教義でもない。功徳とは本来「功能福徳・積功累徳」すなわち善因善行の結果得られる「六根清浄の果報」であり、棚ぼた式の現世利益ではないからである。
もし、池田の言の如く現世利益を功徳と称するのであれば、王子として生まれ、財にも、健康にも、妻子にも恵まれ、何不自由のない暮ら しを享受していた釈尊は、生・老・病・死の無常を感じて出離の道を歩まれる必要はなかったはずである。釈尊の捨てたものを「功徳」と称するのでは本末転倒 も甚だしい。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p160-2)
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