大岡忠相 - Wikipedia
江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。(中略)
史学的検証では、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されている[18]。現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代や忠相の同僚である北町奉行・中山時春の裁定したもの(「直助・権兵衛」[19])や忠相没後の事件も含まれている。
白子屋お熊 - Wikipedia
享保11年10月17日の早朝、就寝中であった新材木町の材木問屋「白子屋」の娘・くまの夫である又四郎が、白子屋の下女・きく(当時16歳)に頸部を剃刀で切りかかられて抵抗したところ、頭部に傷を負った。又四郎の傷は浅く、きくを取り押さえた後助けを呼んだため、大事には至らなかった。
白子屋側は、又四郎の実家に示談を持ちかけたが、同家は又四郎・くま夫婦の不仲が噂になっていること、きくの犯行動機が不明であることから白子屋を怪しみ、10月20日に、町奉行所に事件の調査を訴え出た。奉行所が下手人であるきくを取り調べたところ、きくは(引用者注:くまの母)つねに犯行を教唆されたことを自白した。きくの証言を得た奉行所が、つね・くま母子を問い詰めると、又四郎の殺害計画を自供した。
くまは結婚前から日本橋中でも美貌で知られており、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けた。裸馬に乗せられたくまは観衆の期待に応えるように、白無垢の襦袢と中着の上に当時非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿で、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったという。
殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌や処刑時の派手なパフォーマンスなどから江戸で大変な波紋を呼び、『近世江都著聞集』、『享保通鑑』、『兎園小説余録』、『江戸真砂六十帖広本』、『武江年表』などに事件が取り上げられている。
6代将軍・徳川家宣の時代、正徳2年(1712年)正月に遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任。(中略)
在職中には、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたという[4]。
山田奉行時代に忠相と吉宗の間に知縁ができたとする同様の巷説は幾つかあるが、実際には奉行時代の忠相には他領との係争を裁定する権限はなく、後代に成立したものであると考えられている(宇野脩平『大岡越前守忠相』)。
また遠国奉行を経て江戸町奉行という昇進コースは順当なものであり、60代で就任することが多かった町奉行に40代で就任したことは、とりたてて抜擢人事などではないと指摘される。
山田と松坂との境界を巡る訴訟については、紀州藩との境域問題を解決したのは第18代大岡越前ではなく第10代桑山丹後守(後改下野守)であることは「寛文十年二月十日去る寛文七年十一月十五日桑山丹後守に依って確定した神領前山境域に対し幕府より其の朱印状が下付された」と「山田奉行御役所旧記」に記録されており、山田三方会合「山田古法式目」にも桑山貞政奉行が紀州藩に申し入れ、寛文7年11月に解決したと記されている。
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