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アメリカでは通用せず…大失敗に終わった宇多田ヒカルの全米デビュー 2016年9月3日 22時5分 チョベリグニュース
1998年に、15歳で作詞作曲したデビューシングル『Automatic/time will tell』が、大したプロモーションもなくミリオンヒットを記録。(中略)
そんな宇多田が、満を持して全米デビューを果たしたのは、2004年10月。アメリカに本社を置くレコード会社『ユニバーサルミュージック』と契約し、Utada名義でのアルバム『EXODUS』を引っさげての世界進出でした。しかし、ビルボードチャートは初登場160位。2週目には早くも200位圏外になるという大惨敗っぷり。続くセカンド・アルバム『This Is the One』は多少健闘したものの、69位とやはりノーインパクトのまま。
2010年にはワールドツアーを開催するも、1000人前後という小規模キャパの会場さえ埋らないという屈辱を味わいます。それが彼女のプライドを傷つけ、同年8月、かの有名な“人間活動宣言”に伴うアーティスト活動休止につながったとも言われていますが、真相は定かではありません。(こじへい)
宇多田ヒカル - Wikipedia
1990年に藤圭子、宇多田照實(Sking U)、宇多田ヒカルの家族3人ユニット「U3」を結成[44]。1993年9月17日にはポニーキャニオンからU3としてスタジオ・アルバム『STAR』を発売して日本デビューしている[44]。
1995年になると宇多田ヒカルが父親の代わりにボーカルとなり、「cubic U」名義としてインディーズのレコードレーベルから作品をヨーロッパやアメリカ合衆国で発売し、翌年にかけて合計3枚のレコードと1枚のマキシシングルを発表[44]。日本では1996年9月26日には日本クラウンから藤圭子 with cubic Uとしてシングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を発売している[44]。1997年1月、アメリカで「Cubic U」としてシングル「Close To You」(「遙かなる影」のカバー)、次いでアルバム『Precious』を発売[44]。同年秋、東京のスタジオでレコーディングしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目に留まり、「日本語でやってみない?」という誘いにより日本デビューが決まった[45]。なお、Cubic Uの日本盤として1998年1月16日にシングル、1月28日にアルバムを発売しているほか[44]、NHK-BS2の『新・真夜中の王国』でテレビ初出演している
1998年10月、FMラジオレギュラー番組『Hikki's Sweet&Sour』と『WARNING HIKKI ATTACK!!』が放送開始(いずれも1999年3月放送終了)。12月9日、「宇多田ヒカル」として1stシングル「Automatic/time will tell」発売。当時は8cmシングルから12cmシングルへと移行し始めた過渡期にあったため、8cm盤と12cm盤の2形態で発売した[46]。
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