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「祝福できないならば呪うことを学べ」は明るい教え~原田まりる氏インタビュー(後編)|ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。|ダイヤモンド・オンライン 2016年10月1日 原田まりる [作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター] (構成:伊藤理子)
──文中において、数多くの「哲学者の言葉」が引用されていますが、原田さんが一番好きな言葉は何ですか?
う~ん…たくさんありすぎて…。でもやはり、主人公のアリサが物語の冒頭で最初に出会うニーチェの言葉「祝福できないならば呪うことを学べ」、ですね。
他人を祝福しなければならない、おめでとうと言わなければならない状況だけど、心が相反している状態にあるならば、無理矢理自分の心を殺すことはない。それよりも「受け入れられない」という事実を自分で認め、心を開放し、徹底的に呪ってしまったほうがいい…という「ニーチェ流の明るい教え」です。
主人公のアリサは、好きだった男性が、自分と仲のいい由美子先輩と腕を組んで歩いているところを目撃してしまい、「先輩を祝福すべきという気持ちの反面、2人がうまくいかなければいいのにと思ってしまう自分」に嫌悪感を覚えますが、このニーチェの言葉が突き刺さり、心が解放されます。
他人の幸福を共に喜び、祝福できない自分はダメなんじゃないか?などと自分を責めるのではなく、心がグツグツしちゃっているんだったらそれでいいんじゃないの?…というこの言葉に「なるほど!その通りだ!」と感服しましたね。「呪う」のインパクトは強烈ですが、この言葉に救われる人は多いんじゃないかな。道徳の授業では決して教えてもらえないでしょうが、極めて「明るい教え」だと思います。
ハテナ?のメール箱の回答。:100分 de 名著
受けとめがたいマイナスなこと(震災のような事件だけでなく、親が不仲で雰囲気の悪い家庭に生まれ育つしかなかった、なども含まれます)が起こってしまった。このことは自分の力でどうにもなりません。時間軸を巻き戻すことはできないからです。しかし多くの人がそれを受け入れられず、恨みます。「なぜ私(たち)だけがこんな目に」「こんなことさえなかったら……」と。ニーチェのいう<ルサンチマン>ですね。
このルサンチマン(恨み)の気持ちはごく自然なもので、まずはそれを発散することが必要です。ニーチェ自身も「祝福できない者は、呪うことを学ぶべきだ!」(『ツァラトゥストラ』第三部「日の出前」)といっています。
しかし、恨みのなかにずっと埋没していると、二つの大切な人生に対する感覚を失ってしまいます。
1. 主体性の感覚の喪失—では、ここで自分は何を・どのようにやっていこうか、と前向きに問いかける気持ちを忘れてしまう。自分は自分の人生の主人公だと思えなくなってしまう。
2. 悦びの感覚の喪失—いままで生きてきたなかで、自分もささやかな悦びや深い悦びを受け取って生きてきたことを忘れてしまう。そして、いまの状況からでも悦びを受けとって生きよう、という姿勢をもてなくなる。
ルサンチマン(恨み)は、このようなことを招いてしまいます。もちろん、自分の人生は自分の人生ですから、恨み続けて生きるのもその人の自由かもしれません。しかし長く病気で苦しみ、ひどい失恋をも経験したニーチェは、恨んで生きたくない、主体性と創造性と悦びを感じて生きていきたいと強く願った。そのためには、起こってしまったことを認め受け入れるしかない、と考えたのです。そうした思いから、永遠回帰の思想も生まれたのです。
ですからニーチェは、「震災も受け入れなくてはならんぞ」とただお説教するようなことはしないでしょう。「君が主体性と悦びをもって生きていきたいと願うのなら、時間はかかっても、震災が起こってしまったことを受けとめなくちゃいけない。やっぱりそういうことになるよね」と、ニーチェならいうでしょう。
しかし一点、ニーチェの思想には足りないところがあります。「どうやったら受け入れていけるか」についてきちんと考えていない点です。ニーチェのなかには、雄々しくがんばって苦しみを受容していくんだ、というヒロイックな感覚が強くあります。でもそれには無理がある。震災は多くの方にさまざまなショックや後悔を与えたことでしょう。そうした経験と思いを互いに語り合うことが、苦しみを受容していくためには大切だとぼくは思います(一人ずつの個別の心理的なケアよりも、有効かもしれません)。ようするに、一人だけでがんばらないほうがよい、と思うのです。
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