「井伊直虎」別の男性が名乗った名前か 新たな見解 | NHKニュース
井伊直虎については残されている史料が極めて少なく、戦国時代に今の静岡県浜松市の一部を治めていた人物として、「次郎直虎」という表記で登場します。
同じ時期に井伊家の当主の娘が「次郎法師」と名乗っていたという古文書があることなどから、研究者の間では、この女性を直虎と見なす考えが出されています。
井伊直虎 - Wikipedia 最終更新 2016年12月14日 (水) 20:21
井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江井伊谷[2]の女領主。
同国の国衆・井伊氏の事実上の当主を務めて、徳政令などを行い、「女地頭」と呼ばれた。井伊直親と婚約したといわれるが[3]、生涯未婚であった。井伊直政ははとこであり、後に養母となった。
幼名は不明。父・直盛に男子がいなかったため、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。ところが、天文13年(1544年)に今川氏与力の小野道高(政直)の讒言により、直親の父・直満がその弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡した。井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。許嫁であった直虎は龍潭寺で出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)という出家名を名乗った[5]。
[5] 龍潭寺 井伊直虎(次郎法師)|井伊家の歴史|遠州の古刹 龍潭寺
(引用者注:井伊家の一族や重臣らが次々と亡くなったため、)龍潭寺の住職の南渓瑞聞により、幼年であった直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。
以上のような経緯を経て、永禄8年(1565年)、次郎法師は還俗して、直虎と名を変えて井伊氏の当主となった。「直虎」は仮名であって、本当の名前ではない[8]。『井伊家伝記』によると「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあり直親の死去により、この次郎法師しか後継者がいなかった[9]。具体的には直盛の未亡人と龍潭寺の南溪和尚が相談の上、女性地頭を誕生させた[10]。(中略)
永禄8年9月15日、龍潭寺への寄進状に自らが黒印を押して寺領を確認している。自分の家の菩提寺ではあるが、公的な印判状を出し、書き止め文言も「仍如件」となっていることから、女性地頭として領域支配に取り組んでいたことがわかる[10]。またこの文書で直虎はあえて「次郎法師」と名乗っており、つまり、直虎は「次郎法師」となることで、龍潭寺を中心とした宗教秩序の構築の主張に関わる権利と、井伊家の惣領としての権利の二つを入手することを可能にしていた。宗教的な権威と、実質的な権力を持つことで在地支配を実行しようとしていたと言えるのである[12]。
[8]^ 夏目琢史『文明・自然・アジール―女領主井伊直虎と遠江の歴史―』(同成社、2016年、148頁)
[9]^ 引佐町史 上巻 1991, pp.560-561
[10]^ a b 引佐町史 上巻 1991,
[12]^ 夏目琢史『文明・自然・アジール―女領主井伊直虎と遠江の歴史―』(同成社、2016年、167頁)
信憑性
井伊直虎については、『井伊家伝記』を主な史料としてその生涯が叙述されているが、同家伝は誤伝を含む地元の伝承をもとにして記述されており、史実とは言い難い内容も多い史料である。よく知られた直虎の生涯についても、史実性については再検証が求められている。
井伊直親と許嫁であったという点は、直親が信州に逃れた天文13年(1544年)時点で、直親は10歳、直盛は19歳であり、この時その娘(直虎)は生まれていたとしても、出家しようという判断力のある年齢ではないため、史実ではなく創作されたものと考えられている[20]。
[20]^ 野田浩子「『井伊家伝記』の史料的性格」(『彦根城博物館研究紀要』第26号、2015年)
平成28年(2016年)12月、京都市の井伊美術館の井伊達夫館長が、直虎は女性ではなく、今川氏家臣関口氏経の子を井伊次郎と名乗らせて当主としたもので、男性であるという説を発表した。江戸初期の寛永17年(1640年)に井伊家家老木俣氏が聞き書きして残した書を、享保20年(1735年)に子孫がまとめ直した写本がその根拠とされる。[21]
[21]^ 日本経済新聞「「井伊直虎」女性でなかった? 井伊美術館が新史料」
井伊氏 - Wikipedia
分家・井伊兵部少輔家
井伊直政の長男、直勝は表向きは病弱だったとされ、幕命により本家を弟に明け渡す形でこの直勝が興した系統は、旧武田家臣などの外様や幕府からつけられた家臣ではなく、「本来の井伊氏の譜代家臣」が多かったと伝わる。安中藩から西尾藩、掛川藩と転封された。直勝の曾孫である掛川藩主・直朝は発狂を理由に改易となった。
しかし、宗家・掃部頭家から直興(直該)の 四男・直矩(直朝の妻の兄弟に当たる)を兵部少輔家の5代目に迎えての家名再興存続が許され、城を持たない(無城主格)2万石の越後与板藩主となった。その後、10代・井伊直朗が若年寄となったため、城主格に昇格した。維新後、子爵となり華族に列する。現当主は井伊達夫(旧姓中村、京都井伊博物館長)で、2007年に養子縁組して名跡を継いだ。
おんな城主直虎と井伊家の歴史 (キネマ旬報ムック)
2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』放映にあわせ、井伊家の歴史を辿る一冊。解説は井伊美術館長の井伊達夫氏!
直虎は、戦国時代に井伊家の頭領として生き抜いた女傑で、徳川四天王となった井伊直政の養母でもあります。
直虎に始まる井伊家の歴史は、徳川家の歴史にも重なりドラマティックに展開していきます。
本書では、井伊家の歴史をたどりながら、トピックとなる人物をクローズアップします。
【目次】
第1章:直虎が命がけで守った井伊家
第2章:直政の活躍と井伊家の発展
第3章:譜代大名筆頭として徳川家を支えた江戸期
第4章:幕末の動乱とその後の井伊家
その他、ひこにゃんが案内する彦根城 など
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