板垣退助の話をまとめ。<実は捏造?板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」という名言はなかった>、<「痛い、医者を呼んでくれ」と言ったという説まであってカオス>、<ワンパクであった一方で潔癖症 うんこを投げつけられて負ける>などをまとめています。
2022/11/08追記:
●ワンパクであった一方で潔癖症 うんこを投げつけられて負ける 【NEW】
●板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」という名言はなかった?
2017/1/8:別の話の下書きをしていて、ある人が言ったとされる有名な言葉がはっきりしない、あるいは創作の可能性があるという例を先に出しておこうと思いました。そして、こうした例として私が真っ先に思いついたのが、板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」でした。
私は完全な創作として覚えていたものの諸説あるようで、
板垣退助 - Wikipediaでは似たような言葉を言っていたという説明でした。この説を採用すれば、完全な嘘ということでもないようです。ほぼ本当といった感じでしょうね。
<明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われた後に竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い [注 5]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった>
上記には[注 5]とありますよね。注釈によれば、これは出典があります。警察の記録です。当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されているとのことでした。
警察の記録となると、信頼性が高いと考えられました。ところが、警察の書類でもまた別の記述があり、ここですら一定ではありません。岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されているそうです。
●本人も否定している?「板垣死すとも自由は死せず」捏造説もある
細かい発言内容は異なっているものの、上記は出典がはっきりしており、大体間違いなさそうに見えます。ただ、検索してみると、私と同じようにまるっきり捏造と覚えている人もいました。以下は、司馬遼太郎の小説を史実と勘違いしている人がいるという話の中で、出てきた文章です。
<「板垣死すとも自由は死せず」という歴史的には有名な言葉も、板垣退助自身の言葉ではなく、ジャーナリストなど別の人の言葉だと云われていますが、板垣本人の言葉だと誤解していた人が非常に多かったのです>
(
司馬遼太郎っていってもほとんど創作ですもんね。 - 日本人にどれだけ間違った... - Yahoo!知恵袋より)
また、同じWikipediaでも別のページの
岐阜事件 - Wikipediaでは、板垣自身がこれを否定しているという話が出てきました。こちらの経緯の方がはっきりとしており、同僚の内藤魯一さんが捏造したとされています。
<「板垣死すとも自由は死せず」の真相>
<「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣が襲撃を受けた際に叫んだと言われている。しかし、
板垣自身が後に「アッと思うばかりで声も出なかった」とも書いており諸説あることがわかる。文章として登場したのは、4月11日の大阪朝日新聞の、板垣は「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだという記事である。
後の報知新聞の取材によると、この「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にしたという。他にも説があり、板垣本人がよく似た言葉を襲撃された際叫んだという>
●「痛い、医者を呼んでくれ」と言ったという説まであってカオス
ただ、他にもまだ違う説があると書かれていました。こんだけいろいろあると、わけがわかりませんね…。
・「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より)
・「吾死スルトモ自由ハ死セン」(政府密偵(岐阜県御嵩警察署員)の上申書より)
・「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキゾ」(岐阜県警部長の報告書より)
他にも、実際には土佐弁で叫んだとか、「痛い、医者を呼んでくれ」と言ったとも言われている
結局はっきりしない感じだったものの、この話はもともとある人が言ったとされる有名な言葉がはっきりしない、あるいは創作の可能性がある、という例として書き始めたものでした。そういう狙いからすれば、ピタリと当てはまる良い例ではあります。助かりました。
●ワンパクであった一方で潔癖症 うんこを投げつけられて負ける
2022/11/08追記:板垣退助の
ウィキペディアを見ると美化されているようなところを感じたのですけど、おもしろエピソードもあるにはあります。今回はまず少年期のエピソードを。ワンパクであった一方で潔癖症という弱そうなところもあったのがおもしろいですね。
<後藤象二郎とは竹馬の友で互いに親を亡くした境遇が似て、心を通わせ「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。少年期は腕白そのもので、ある時、後藤象二郎が蛇が苦手であることを知った板垣は、紐で縛った青大将を棒の先にぶら下げて、後藤を驚かせた。逃げる後藤を追いかけるが、怒った後藤は道端に落ちていた犬の糞を躊躇なく手で掴むと、板垣の顔へ目掛けて投げつけて反撃。板垣は手を洗う時に盥(引用者注:たらい)の水を二張り使うほどの潔癖症であったので、この糞攻撃の効果は絶大で「糞を投げるは卑怯なり」と忽ち降参した>
ここで言う「竹馬の友」は単なる「幼なじみ」という意味。日本ではほとんどこの意味で使われており、悪い意味ではありません。板垣退助と後藤象二郎の場合も他意はないでしょう。ただ、以下のように「竹馬の友」の元になったエピソードはほのぼのしたものではないんですよね…。
精選版 日本国語大辞典「竹馬の友」の解説<[補注]殷浩(いんこう)と並び称されていたが、内心は共に競い合う仲であった中国、東晋の桓温(かんおん)は、殷浩がおさない時には自分の棄てた竹馬を使っていたと、自分の優位を人に語ったという「晉書」殷浩伝の故事に基づく>
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