ある記事で船中八策は新聞小説の作り話という話があって、怪しいと思って調べてみたのがきっかけ。すると、それ以外の話でも、続々と過大評価だったという話が出てきて、小さい頃坂本龍馬が好きだった私としてはがっくり。
とりあえず、船中八策の場合はまだ創作説で確定というわけではないものの、確かにそういった主張をする論者がいますし、船中八策の意義が過大評価だったというのはかなり支持されてそうな感じでした。
●知ってはいけない坂本龍馬の真実 船中八策は創作だった説
船中八策は一般的に以下のように説明されています。
船中八策(センチュウハッサク)とは - コトバンク
デジタル大辞泉の解説
せんちゅう‐はっさく【船中八策】
慶応3年(1867)坂本竜馬が起草させた新国家構想。長崎から上洛中、土佐藩船中で後藤象二郎に示したものとされ、朝廷への政権奉還、二院制議会の設置、外国との不平等条約の改定、憲法の制定、海軍の拡張など8か条からなる。後にこの構想は、大政奉還、明治政府の五箇条の御誓文となって引き継がれた。
最後の「大政奉還、明治政府の五箇条の御誓文となって引き継がれた」というのが重要なところで、先見の明があったという坂本龍馬のすごさを説明する逸話の一つになっています。日本維新の会(大阪維新の会)が「船中八策」を使ったように、非常にイメージの良いものなんですね。
ただし、私が最初に読んだ記事や、
船中八策 - Wikipediaが指摘するように、この「船中八策」には長岡謙吉が書き留めたとされているものの、長岡自筆の書面は残っていないのです。
このようにきちんとした証拠がない場合、実在するかどうか怪しいと考えるのは当然の話ですから、船中八策も捏造の可能性を指摘されているようです。
一方、Wikipediaでは、坂本龍馬は大政奉還後の11月に船中八策と内容が共通している「新政府綱領八策」と呼称される新政権の構想を複数自筆しており、これについては龍馬自筆のものが2枚現存していることに触れています。
とはいえ、この「新政府綱領八策」の評価もまた複数の説があります。そもそも「新政府綱領八策」は大政奉還より後のものなので、前述の大政奉還の元になったという逸話の証拠にはなり得ません。
菊地明さんの場合は、以下のようにもっと前から構想していたものだと推測しています。これは坂本龍馬に有利な情報であるものの、証拠は何一つありません。
・菊地明は「新政府綱領八策」が龍馬から後藤象二郎に示された八策の原案であり、文書の11月という日付は作成日ではなく筆写日だと推測している。
逆にめちゃくちゃ厳しい推測をしていたのが、青山忠正さんです。
・青山忠正は龍馬が手紙の中で近世に定型的だった書簡用の文体(候文)を正確に用いないことから、龍馬が抽象的な概念を駆使する能力がなかったという見解を示し、龍馬自筆原本が現存している「新政府綱領八策」までも、前述の理由から龍馬の案とは考えにくいと推測している。
●船中八策の考え方は、坂本龍馬以外も持っていた
個人サイトですが、検索していると、そもそも船中八策の考え方は画期的ではない…という話もありました。
えっ、坂本龍馬の「船中八策」ってフィクションだったのか? - 鎌倉ではたらく太守のブログ( 2013-11-15 )
龍馬がこうした構想をもっていたことは間違いないじゃろうが、それ自体は龍馬オリジナルでもなんでもなく、大久保一翁ら当時の有識者はみなもっていたアイデアであり、その他の提示内容もごくごくありふれたものにすぎないという。
実際、先のWikipediaでも、"当時としては画期的"、"卓越した議論"などと書いている一方で、親交のあった人たちから影響を受けていることを示唆していました。坂本龍馬だけが持っていた画期的な考え方というイメージは、行きすぎと言って良さそうです。
龍馬と交流のあった勝海舟、大久保一翁の影響、福井藩の政治顧問であった横井小楠からの影響も指摘されている。また由利公正や上田藩士の赤松小三郎、真木保臣(久留米水天宮宮司、久留米藩士)が1861年(文久元年)に著した『経緯愚説』から影響を受けたとする説もある。
ちなみに
ヤフー知恵袋の方で、「新政府綱領八策」の現代語訳がありましたので、参考のために掲載しておきます。
新政府綱領八策(の意訳)
一、天下の政権(徳川の政権)を朝廷に奉還させ、政令は朝廷より出されるべし。
一、上下(二つの)議政局を設置し議員を置いて、万機(全政治)を参賛(参加し助け)させて公議(おおやけの議論)で決定すべし。
一、有能な公卿・諸大名及び天下の人材を顧問に登用して官位・爵位を(朝廷から)賜って、従来の有名無実(名ばかりで無能)の官を除外するべし。
一、外国との交際(交渉)は広くおおやけに議論して決定し、新たに至当(至極当然)の規約を成立させるべし。
一、古来の律令を折衷(取捨選択)し、新たに無窮(永久に堪える)の大典(重要な基本法)を撰定すべし。
一、海軍を拡張すべし。
一、御親兵(朝廷防御兵)を置き帝都を守護させるべし。
一、金銀物価(交換レート)は諸外国の平均比率となる法を設けるべし。
●船中八策以外も過大評価だった…坂本龍馬の功績
一つ一つは確かめていないので、本当でしたら確認する必要がありますが、「鎌倉ではたらく太守のブログ」では、他に以下のような説を書いていました。
・薩長同盟そのものは龍馬が主導したわけではなく、龍馬は薩摩藩の指示によって周旋していたにすぎない。
・龍馬が乙女姉さんに書いた手紙の中の「日本を今一度せんたくいたし申候」という名言は横井小楠の「天下一統人心洗濯希うところなり」という口癖のパクリ。
・北辰一刀流の剣の達人といわれるが、免許皆伝は薙刀で、剣は大して強くなかった。
最後の話の関連では、
北辰一刀流兵法流長刀目録は本物!坂本龍馬の剣術の腕・強さの評価を過去に投稿しています。
また、
坂本龍馬の真実 船中八策は虚構か? - 宮代栄一 - 本のニュース _ BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイトでも、ほとんど同じ話がありました。
まず薩長同盟。討幕軍事同盟と言われてきたが、佛教大学教授の青山忠正さん(明治維新史)は「一次史料を読む限り、内容は薩摩藩が朝廷に長州藩主親子の官位停止の撤回を働きかけるという支援表明。討幕うんぬんは無理がある」と話す。
「会談も、坂本が発案したというより、薩摩の意を受けたエージェントとして動いたのだろう。両藩とも重要な交渉は正規の藩士が行っており、坂本はその下働きに過ぎなかった」
大政奉還についても、「坂本がそうした考えを持っていたことは否定しないが、1867年ならば当たり前の考え方。独創とは言えない」と指摘する。
龍馬が船で考えたという建議案・船中八策も、知野(ちの)文哉著『「坂本龍馬」の誕生』によると、原本も写本もなく、書物によってばらばら。明治以降に書かれた龍馬の伝記の中で作られた虚構と考えられるという。
さらに「日本をせんたく」のフレーズも、横井小楠(しょうなん)記念館・四時軒(しじけん)(熊本市)館長の松原英明さんは「福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)の政治顧問を務め、龍馬と何度も面会した横井小楠の口癖であり、それを手紙を書く際に借用した可能性が高い」と話す。
記事では、龍馬の手紙140通を検討した京都国立博物館学芸部企画室長の宮川禎一さんの、手紙からは龍馬が薩長同盟成立を非常に大きな仕事と考えていた節がうかがえる」という話をフォローっぽく書いていました。ただ、これはフォローになりきれていないような? 坂本龍馬のすごさに繋がるような話ではない気がします。
記事のフォローとしては、最後にあった"龍馬が魅力的な人物だったことは確からしい"というところでしょうね。先の「鎌倉ではたらく太守のブログ」でも、同時代人の評価が高いことを指摘していました。好かれる人物だったことだけは、間違いなく事実のようです。
坂本龍馬に限らず、歴史上で人気のある人物というのは、何でもかんでもすごい!と誇張されがちです。しかし、そうやって美化しすぎるというのは、ある意味失礼じゃないかと私は考えます。
坂本龍馬は等身大の坂本龍馬であっても、十二分に魅力的なのです。それを愛せないというのは、不幸なことだと思います。
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