以前、
光源氏の女性遍歴というのを書きましたが、もうちょっと違う話題も……と思います。
何が良いかな?と思って、とりあえず、光源氏のモデルの話を。
光源氏は当然、源氏物語に出てくる架空の人物なのですが、モデルがいると言われています。
何て人だっけ?と
Wikipediaを眺めてみると、
架空の人物であるが、さまざまな実在の人物をモデルとする説が唱えられている。嵯峨源氏の正一位河原左大臣の源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力である。また醍醐源氏の左大臣源高明や光孝天皇、藤原道長、藤原伊周、源光、嵯峨天皇など多くの人々の名前が挙げられている。もっとも、どの人物がモデルであったとしても、その人物以外の他の平安貴族(在原行平、在原業平、菅原道真など)の故事なども用いて脚色されていると考えられている。 |
と、多量に名前が出てきます。
この他にWikipedia内で藤原実方、他サイトで藤原高藤といった名前も出てきています。逸話だけの「在原行平、在原業平、菅原道真」を除いたとしても、これだけの人数がいます。
・源融
・源高明
・光孝天皇
・藤原道長
・藤原伊周
・源光
・嵯峨天皇
・藤原実方
・藤原高藤
一応最有力とされるのは引用にある通り源融(みなもと の とおる)みたいですが、これだけたくさんいるというのは、決め手に欠けるということでもあるでしょう。
こうなってしまうと、もうたとえモデルとして使っていても、いろいろな人の集合体であり、誰か一人というわけには行かない気がします。
まあ、それはさておき、
源融のWikipediaを見てみます。
ただ、短いものですし、あまり目を引く内容もありません。
行動だけ抜き出すと、
「陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営した」(引用者注:塩釜は現在の宮城県塩竈市)
「貞観14年(872年)に左大臣にまで昇ったが、貞観18年(876年)下位である右大臣の藤原基経が陽成天皇の摂政に任じられたため、上表を出して自宅に引籠もった(『三代実録』及び『中右記』)。光孝天皇即位後の元慶8年(884年)、政務に復帰。」
「陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。」
といった感じ。これだけの出来事から、光源氏らしさを感じるというのは、ちょっと難しいです。
で、他を探しましたが、源融自身の話を含めて詳しく載っていたのは、
光源氏の愛した地・塩釜とは? | 光源氏の愛した地・塩釜へです。
年表では先のWikipediaになかった"「応天門の変」で源信と謀議があったと密告されるが無罪"というのもあります。これはさっきの引き篭もりより前の話です。
そして、このページで注目すべきは、「源融が光源氏のモデルといわれる理由」のところです。
1.不遇
源融……嵯峨天皇の子で、兄弟が帝となった中、自らは臣下として仕え、北家藤原氏に敗れて政治的には不遇。
光源氏……須磨に流された。
2.美男子
光源氏と同じように、源融も評判の美男子だったそうです。光源氏なら、これがないと駄目ですよね。
3.源氏物語は源融一族と深い関わりがある物語
光源氏のモデルは複数いて、"「源高明」もその一人ですが、実は「源融一族の系図」にあるように、源融一族が世代をまたいで源氏物語のモデルになっていて、「源氏物語は源融一族と深い関わりがある物語ではないか」ともいわれているのです"とのこと。
ただ「源高明」(たかあきら)を「源融一族」とするのは、正直苦しいと思います。源高明は醍醐天皇の息子で、醍醐天皇は源高明の兄である仁明天皇のひ孫です。自分の子孫ではなく、兄の子孫であり、天皇の血統を傍系の一族と呼ぶのは、不自然です。
4.源氏物語の舞台は、源融ゆかりの地
・「嵯峨野の御堂」と「清涼寺」
嵯峨野の御堂とは、源氏物語で光源氏が大覚寺の南に土地を求め、紫の上が源氏四十の賀を記念して薬師仏供養を行った所。
清涼寺は、源融の山荘棲霞観(せいかかん)跡。嵯峨野の御堂は、この清涼寺のことだと言われているそうです。
・「六条院」「某の院」と「六条河原院」
先に出た河原院(かわらのいん)は、源氏物語に登場する光源氏の住まい「六条院」や、夕顔の段に登場する「某の院」のモデルと考えられているそうです。
モデルの理由としては以上でしたが、源融と塩釜の関係は書いておいた方が話がすっきりしそうです。
同じくこのページから引用しますが、
「中納言源融は陸奥出羽按察使(東北地方を監督する役職)を兼務しました(遙任といい、実際には赴任しなかったという説が一般的です)」
ということです。
そして、
「「塩釜」は、好奇心旺盛な貴族達にとっては、あこがれの地として「美しいもの」の代名詞となっていきました。 そして「浜で美しい塩釜」は「葉まで美しいシオガマ(花)」というかけことば掛詞から数多くの「花の名」となっています」
という塩釜の風景を再現すべく、京都に別荘を作ってしまったようです。
なお、そもそも別荘を作れるんですから当然なんでしょうけど、
「塩釜は、古くから塩造りで栄えた町であり、食用はもちろん、軍事用にも大量製塩されていました。」
「もしかすると奈良から平安時代にかけてあった「鳥居原古代市場(現在の塩釜高校校庭)」では、塩ばかりでなく、金の取引も行われていたのかもしれません。」
といったことから、政治的には不遇でも、財力には恵まれていたのかもしれないなと思いました。
で、最初そう書いて終わりにしていたのですが、気になったので調べると、不適切だったようです。河原院は死ぬまで自分のもの(子に相続)でしたが、陸奥出羽按察使は5年のみでしたから、後年の財政状態までは断定できません。(任期は
Wikipediaより。陸奥出羽按察使はかなり頻繁に変わっており、同じ光源氏のモデル候補である源高明も5年間その任にあったようです)
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